煙管(キセル)タバコのすすめ 後編

前編では簡単ながら
煙管の魅力をご紹介しました。



後編では実際の吸い方や扱い方と
煙管が哲学的な要素も孕んだ喫みものでもあることを
ご紹介できればと思います。





前編では
初心者の方に向けて
パイプスクリーンをお勧めしましたが
ずっとパイプスクリーンを使用したままだと
煙管の魅力は半減してしまい
パイプスクリーンの掃除など
余計な手間もかかるので
あまりお勧めできません。

どうして魅力が半減してしまうのかを
吸い方を交えながら説明させていただきます。





ちなみにパイプスクリーンのセット方法は
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爪楊枝などの背を使い
このように押し込みます。
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これでセット完了です。
(火皿の大きさやパイプスクリーンの大きさによっては
ハサミで切って調整する必要があります)






現在ノーマルの小粋を切らしておりまして
こっちの「小粋 松川刻」を愛用してます。
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福島県石川郡で生産された限定品で
東日本大震災後
復興への願いを込めて作られたんだそうです。
ノーマルと同じ380円で売られていますが
単品で販売してる店は
「大人の駄菓子屋」と店主が称する
阿佐ヶ谷の「いかわたばこ」しか私はしりません。
限定品だけに、在庫がなくなれば
その時点で販売終了かもしれません。
この古臭い外観と店主の人柄がグッドなお店です。
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私の場合
葉はこのようにタッパーに移します。
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ヤフオクで素敵な煙草入れがたくさん出品されてますが
「お」 と思うものはお値段もそれなりで
今のところ味もそっけもないタッパーで我慢してます。
冬場など乾燥する時期は
葉がボロボロになってしまうので
加湿剤(エバーウェット)を一緒に入れてやります。
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煙草屋で一個50円で買えます。
湿度を70~75%に保つよう記憶された活性白土(セラミック)が入っているという優れものです。
ですが、正直これだけでは役不足なところがあります。
そういうときはさらに大きいタッパーを用意し
蓋をして湿らせたティッシュとしばらく置いたり
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タッパーを離し気味の状態から、直接霧吹きすることも。
玄人の方には怒られそうですが。
注※加湿しすぎるとカビが生えることがあるそうです




あとは葉を取り出し
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丸めます。
慣れるまでは少し難しいかもしれません。
このとき葉が乾燥していると
ボロボロに崩れてしまいます。
湿度が最適な時は
葉を丸めやすいのですぐわかります。
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うまく丸めて詰められるようになると
吸った際に葉が口に入らなくなるのです。





火皿に詰め込み
(ぎゅうぎゅうに詰めるか
余裕を持たせて詰めるか
ふわりと詰めるかなどで
喫煙時間や喫味が変化します)
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あとは着火するのみです。
(本来はマッチで吸うのが基本らしいのですが
私はジッポを使います)
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紙タバコを吸うときよりもソフトに
「熱いスープをすするように吸う」というのが
煙管愛好者たちが口々に話すポイントです。
強く吸えば辛く刺激的になり
弱く吸えば甘く柔らかくなり。
(これは燃焼温度が関係していて
長い煙管ほど冷却効果があり
味がマイルドになります)
肺に入れなければ
味と香りが引き立ちますし
肺に入れたなら
紙タバコのようにフィルターを介さないので
わずかの煙で重みがあり、満足感があります。

私もそのときどきで
肺に入れたり入れなかったり
極限まで弱く吸ってみたり
がつんと肺に流し込んだり──

葉の湿度や
葉の詰め方や
そのときどきの吸い方によって
諸行無常の喫味をひびかせ
一期一会の出会いをするのが
煙管タバコの醍醐味
あるいは哲学
とも言えるのかもしれません。

なるほどこれは
どみどりくんがいつも言う
リアル人生ゲームそのものですね。

欲張って最後まで吸い切ろうとすると
燃えカスが口に入って来て苦い思いをします。
自分なりのやめどきを探りましょう。

「欲張りすぎず引き際を見極める」というのは
これまたまるで人生訓です。





吸い終わったなら
煙管を灰受けに打ちつけるのは御法度。
煙管が壊れてしまうし
この煙管のように雁首が傷だらけになってしまいます。
(この煙管を使ってた方は何度も打ちつけたのでしょうね)
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使ったマッチ棒や爪楊枝で
火皿からこそぎ落しましょう。
肺活量に自信がある方は
息だけで取り除けるかもしれませんが。







吸う頻度にもよりますが
1日に5~6回くらいしか吸わない私は
週に一度ほどモールで掃除します。
この掃除作業は
強い臭気を発します。
非喫煙者が傍にいる場合は気をつけてください。
私も相方によく睨まれてます笑


前編でもお話しした無水エタノールに浸し
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出し入れします。
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次にモールを3、4回折り曲げ、太くしたなら
火皿の中をこそぐように回します。
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汚れカスやモールのカスが残っている可能性があるので
最後に吸い口から息を吹いて飛ばしてやるといいです。






うっかりモールが羅宇に入り
取れなくなったことがあるのですが
そういう場合は
金属部分の雁首か吸い口を竹(羅宇)から外します。

コンロの火で金属をあぶり
火傷しないもので覆い、全力で引っ張れば
なんとか外れます。
女性の方は男性にお願いした方が無難かもしれませんね。

そして金属がまだ熱いうちに羅宇に押し込み戻します。


また、水洗いもできないことはないのですが、
湿気で竹(羅宇)が痛むそうなので
モールで乾拭きしてやり、よく乾かすのがいいかと思います。





いかがだったっでしょうか。
煙管を試してみようと思ってくださったり
煙管を通して何かを感じてくださったなら、幸いです。
もっと煙管について知りたい方は
私なんかよりもっと詳しく解説しているサイトがたくさんありますから
是非探索してみて、逆に私にさらなる煙管の魅力を教えてください。



世の中はなにかと便利になり
なにかと騒がしく
立ち止まることがいけないことのように
常にあおり立てますが
煙管のように
不便だけれども「いま」に立ち止まらせてくれる
ささやかな「いま」の幸福に手を引いてくれるアイテム
たまにはいいかもしれません。

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あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
いずれあなたにおとなうであろう「発見」によりそっています。

今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「BJ Thomas / Rain drops keep falling on my head」

Raindrops keep falling on my head
but doesn't mean my eyes will soon
be turning red
crying's not for me, 'cause
i'm never gonna stop the rain by complaining
because i'm free
nothing's worrying me
nothing's worrying me.
ぼくの頭には、雨の滴が落ち続けてる
だからってぼくの瞳が赤くなるわけじゃない
泣き言は言わないよ
だってね、文句を言ったところで雨を止めることなんてできないし
ぼくは自由だから、なにも心配してないんだ
な~んにもね




パクチーの種を差し上げます。
詳しくはこちらの記事↓を読んでみてください。

http://domidorikun.jp/blog-entry-435.html

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煙管(キセル)タバコのすすめ 前編

タバコをやめて10年以上経っていた私が
再び吸うきっかけになったものが
煙管(キセル)でした。



保湿剤、燃焼促進剤、香料など
様々な化学物質が添加されているとされる
現在の一般的な紙巻タバコですが
そういったものが添加されていないせいなのか
それとも産地の煙草農家の努力の結晶なのか──








「うまい!」



それが端的な感想でした。
かつて吸っていた紙巻タバコはなんだったのだろうと
そう思えるほどに煙管タバコは美味かったのです。





一般的な紙巻タバコと言えば
増税に次ぐ増税でとにかく高額です。
吸い過ぎれば健康を害する場合もあり
(百害あって一利なしという説は
いくらなんでも悪者にし過ぎと思いますが)
臭いがこびりつき
壁や物にヤニがこびりつき
吸い殻が多く出るうえ
副流煙による健康被害などが
わざとらしいほどに多々取りざたされ
喫煙者の肩身は狭くなるいっぽうです。




マナーのわるい方がいることは
百も承知なのですが
喫煙者への
過剰なまでの社会的圧力は
異常にも思えるほどに
手厳しいものを感じます。

舛添都知事へ行われた
マスメディアによる連日の集中砲火同様
国民にタバコを吸われては困るような裏事情が
マスメディアを牛耳る支配者層側にはあるのだろうか
とも勘繰りたくなります。




話がいささか脱線しましたが
この煙管
タバコについてまわる
それらマイナスな側面
プラスにしうる魅力を備えているのです。





時代劇などで
みなさまも見たことがあるかと思いますが
このフォルム
このたたずまい
なんともたまらないものがあります。

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火皿の付いた金属の雁首
金属の吸い口
その間を繋ぐ竹を羅宇(らう)といい
この形の煙管は「石州」と呼ばれます。
一番よく見るスタンダードタイプですね。

最初は真鍮かどうかもわからないような
真っ黒な状態の煙管でしたが
粗めのやすりと金属磨き剤ピカールで
ここまでになりました。


新品のものではなく
USED品の、古くて傷や汚れがあるような
味わい深い一本が欲しかったので
ヤフオクで良さそうなものを探しました。
この煙管は3000円ほどで落札しましたが
幕末や明治期くらいの
著名な金工師が作ったものは
50万円もの値段が付いていました。

ここでもオークションという経済形式の恩恵を
授かった形です。



江戸時代の中期に誕生したとされる
煙管ですが
明治維新後
西洋文明が流入し
生活様式が変化し
現在の一般的な紙巻タバコが台頭したこともあって
徐々に衰退していってしまいました。

使用してみれば
なるほどその理由はよくわかります。



火皿の部分に
刻み煙草を詰め込む手間があります。
風が強い日など
外でそんなことをしていたら
葉っぱが飛んで行ってしまいます。

また
煙管の火皿は小さいので
たくさんの刻み煙草を詰めることはできず
喫煙時間は紙巻タバコより大幅に短くなります。



ですが──




だからこそいいのです。


現在、日本メーカーの刻み煙草は
二種類しかありません。
「小粋」「宝船」という商品です。
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「国産」に至っては
現在では「小粋」のみ
です。
タバコ業界全体がそうですが
刻みタバコの需要にいたっては
風前の灯火
と、そう言えるのかもしれません。


私は「小粋」を愛用しておりますが
10gで380円のこの商品
(宝船「ベルギー産」は20gで500円です)
1日に5~6回ほど煙管で吸って
この一箱
吸い切るのに一ヶ月以上かかります。
一度にあまり喫煙できないということは
それだけコストパフォーマンスがよく
財布に優しい
のです。


勘のいい方は
もうお気づきでしょう。
一度にあまり喫煙できないということは
吸う場所やタイミングが限られるということは
必然的に吸い過ぎを防止する
ことになります。

煙管を取り出し
刻み煙草を詰めなければならないというひと手間は
こころに余裕とのびしろをもたらします。
忙しい現代社会だからこそ
煙草を吸うときくらいは
「小粋」に煙管を構え
のびやかに煙を味わう
のです。

加えて冒頭にお話ししたように
添加物無添加だからなのか
煙草農家の皆様のタバコ葉への情熱なのか
とにかくこの「小粋」
抜群に美味しいです。
だからなのか
短い喫煙時間
少ない喫煙量でも
不思議な満足感があります。

さらに加えれば
相方いわく
紙巻タバコよりも嫌な臭いがしないそうです。
なので
非喫煙者から白い目で見られることも
少なくなりそうです。






ところが
衰退の理由はまだ思い当たります。



吸い終わったなら
使い終わったマッチ棒や
つまようじなどを使い
火皿の灰を捨てなければなりません。
↓私の掃除用のつまようじを預かる置物です。
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また
1日に吸う量が少ない私でも
一週間に一回は
煙管の掃除をしなければなりません。
私はこれ↓を使用してます。
アマゾンで20本×5パックで1080円です。
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このモールを
薬局などで売ってる無水エタノールにひたし
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吸い口の方から出し入れします。
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それをおこたると
中に汚れがたまっていくことになり
味がだんだんわるくなってゆき
最終的には詰まって吸えなくなります。


吸った際に
葉が口に入るのが嫌な方は
慣れるまでパイプスクリーンがあってもいいかもしれません。
これ↓です。
これを火皿にセットします。
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ですが
本来はパイプスクリーンなど使用しないのが煙管喫煙です。
上手に丸めて葉を火皿に詰められるようになり
吸い方が熟達してくればくるほどに
パイプスクリーンなしでも葉が口に入ることはなくなりますし
パイプスクリーンは無用の長物と化します。

自信がある方は
初めからパイプスクリーンなしで挑戦してみるのもいいかもしれません。





面倒くさそうに思えてきましたか?





ですが──




このこともまた
だからこそいいのです。




パイプスクリーンに関しては
私はヤフオクで安価なものを入手しました。
使わなくなった歯ブラシで擦って洗えば何度でも使いまわせるものです。
早い段階で使わないものになってしまったので
必要な方はメールフォームから連絡くだされば
残っているものを無料で郵送します。
私が持っていても仕方ありませんからね。


無水エタノールも
最初に買った一本から
ほとんど減ってません。


またこの
メンテナンスをするという作業は
車やバイクをメンテナンスしたり
お気に入りのペットや仕事道具の手入れをすると
だんだんとそれに愛着が湧いてくるように
煙管にも同じそれが湧いてきます。
相棒のようにすら思えてきます。
なんせ毎日顔を合わせるものですからね。

こんなことって
使い捨ての紙巻タバコでは考えられませんよね。




そんなわけで
次回後編は実践に移ってみたいと思います!













あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
いずれあなたにおとなうであろう「発見」によりそっています。

今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「赤い公園 / 小粋」
作詞 津野米咲

誰もが自分のことで
本当はいっぱいいっぱいなんだ
寂しさに負けそうになって明日がこわくて
それでも優しさを振り絞ってゆく




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絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 後編(最終回)

すべての人間に、不食生命活動モードが備えられているのであれば、なにゆえ世界中の貧しい国々はもちろんのこと、先進国でも餓死する人々が絶えないのか。
あくまで私のひとつの推察としてお聞きください。




創刊してから200年近い歴史を持ち、
世界五大医学雑誌のひとつと呼ばれている「ランセット」という雑誌があります。
そのランセットの1886年の記事に興味深い逸話があります。
執筆者は不明で、実験の場所や時代も多くの諸説があり、はっきりとしたことはわかっていません。
現段階ではこのランセットの記事が最も古い情報とされているようです。

こちらのサイトから引用させていただきました。

忘却からの帰還




いわゆる「都市伝説」というやつです。
ですが、私にとって権威ある医学誌も、教科書の史実も、都市伝説も同じ、
「そんなことがあったのかもしれない情報」です。
いつもそのことをわきまえたうえで、情報とは向き合うようにしています。なるだけ。
なぜなら、どみどりくんがこう言うからです。

「自分のこと」だけしかわからない世界だよ パート2




究極的な視点に立って俯瞰するなら、本当に確かな情報などないし、誰にもそれは確かめようがないものであり、もっと言えば、確かめられないように、この世界はうまいことできているのです。
そのことを理解したうえで、お付き合いいただけましたら幸いです。




こんなお話です。



ある時代、あるところで心理学実験の目的で死刑因が実験場に連れて来られます。
ランセットには死刑因の名前は記されていませんが、初めて名前が登場した笠巻勝利説から引用して「ブアメード」とします。
その実験の表向きの内容は、「どれだけの血液を抜けば人体は死に至るのか」というものでした。


目隠しをされ、その体を厳重に台に縛り付けられたブアメード。
そのタイミングを見計らって、科学者はブアメードにこう告げます。

「我々の想定では、6分が経過したとき、あなたは死亡するだろう」


そうして実験開始。
6分後、ものの見事にブアメードは死亡します。
ところが──。



実は科学者は、血液が一滴ずつ垂れる音を演出するため、水の入ったサイフォンをブアメードのそばに置き、あたかもブアメードの首から血が滴り落ちているかのように思わせる細工をしていただけで、実際は針の先でブアメードの首に微細な傷を付けただけだったのです。
おそらくは科学者は、より危機迫る恐怖を演出するため、秒単位でブアメードに現時刻を告げていったのではないでしょうか。
あるいは、6分という時間だけでなく、死亡推定総出血量を事前に告げ、現総出血量をリアルタイムで告げていった、なんてこともしているかもしれません。



このことは、前回の「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 中編」でご紹介したふたつ目の要素、「言葉のプラシーボ効果」を彷彿とさせますが、こういった事例は「ブアメードの血」のようなマイナスの力に働いた効果に限らず、歩けなかった人が歩けるようになったりだとか、弱小スポーツチームが奇跡の勝利を収めたりだとか、皆様もご存知のように、プラスの効果としても山のように語り継がれています。



まさに、イエスが説いた、『人はパンのみにて生きるにあらず』です。
つまり、飢える人々は食べられないことによる過剰なまでの「恐怖」や「絶望」に殺されてしまうのではないか。そんなことを私は推察しました。




だったら「人間は食べなくても生きられること」を伝達する指導者をたくさん育て上げ、そういった国々に派遣すればいい。そうすれば世界中の人々が飢えに苦しむことはなくなる。
単純に考えればそういう貧困問題解決法に繋がります。ですが、ことはそう単純でもありません。




20世紀始め頃のドイツに、テレーゼ・ノイマンというカトリックの尼僧がいました。
彼女は20歳の時に不慮の災難に遭い、失明したうえに全身不随の体になってしまいます。
ところがその5年後、奇跡的に視力も身体も回復することになるのです。
彼女はその日以来、毎日、祭壇に供えた聖餅の小さな一片を飲み込む以外は、食べ物を完全に断ちました。
「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 中編」でご紹介した、「あるヨギの自叙伝」という本の中に記された、テレーゼを訪ねた聖者パラマハンサ・ヨガナンダの一節を以下に引いてみます。



テレーゼはいとも優しい握手で私を迎えてくれた。われわれは互いに目を見交わしながら、神を愛する者同士の心の通い合いを覚えてほほえんだ。
「あなたは何も召し上がらないそうですね?」
私はこの答えを彼女自身の口から聞きたかった。
「はい、毎朝六時に祭壇に供えた聖餅をいただくほかは何も食べません」
「その聖餅はどのくらいの大きさなのですか?」
「銅貨くらいの大きさで、紙のように薄いものです」
彼女はこう答えると付け加えた。
「私はそれを聖餐の意味でいただくのでございます。祭壇に供えたものでなければ、のみ込むことができないのです。」
「もちろんあなたは、十二年もの間、それで命をつないできたわけではありませんね?」
「はい、私は神様の光で生きているのでございます。」
何と明快な答えであろう! 何と、アインシュタイン的言葉であろう!
「あなたは、生命のエネルギーが、エーテルや太陽や空気からからだの中に注ぎ込まれていることを知っておられるのですね?」
ほほえみが彼女の顔をほころばせた。
「私がどうして生きているのかわかってくださって、ほんとにうれしゅうございます」
「あなたの神にささげられたご生涯は、キリストがおっしゃった『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのコトバによって生きるものである』という真理を毎日実証するものですね」
この説明に、彼女は再び大きな喜びを表した。
「ほんとうにそのとおりでございます。私が今日この世にこうして生きている理由の一つは、食べ物によらず見えない神の光によって生きられることを証明するためでございます」
「あなたは食べ物を摂らずに生きる方法を人に教えることができますか?」
彼女はやや驚いたようすを見せながら言った。
「いいえ、それはできません。神様がお望みになりませんから」




テレーゼとのやりとりはこれで終わりますが、同じ本の中で、ヨガナンダは断食五十年の女ヨギ「ギリバラ」を訪ねます。
彼女とのやりとりが、テレーゼが不食伝達を断った理由の回答にもなっているので、以下に引きます。




「ママ様」私は尋ねた。「世のほかの人々にも、食べずに生きられる方法を教えてあげたらいかがですか?」
世界中の何百万という飢えた人々のためにいだいた私の野心的な希望は、即座に否定されてしまった。
「それはできません」彼女は首を振った。「私は先生から、この秘密を漏らすことを固く禁じられております。創造に関する神様のご計画にむやみに干渉することは、先生のお望みにならないことでございます。もし私が、食べずに生きる方法を人々に教えたら、お百姓たちはさぞ私を恨むことでしょうし、おいしい果物も、地面に落ちてむだに腐るばかりです。不幸や、飢えや、病気は、私たちに人生の真の意義を探求させるための、カルマのむちではないでしょうか」
「ママ様」私はおもむろに言った。「では、あなただけが何も食べずに生きてゆけるよう選ばれたのは、何のためでしょうか?」
「人間が霊であることを証明するためでございます」
彼女の顔は英知で輝いていた。
「人間は、霊的に向上するにつれて、しだいに、食べ物ではなく“永遠の光”によって生きられるようになるということを証明するためでございます」




彼女らがこのように語った意味が、私はよくわかります。
考えてもみてください。
何のための「咀嚼運動」や「歯」、「味覚」や「嗅覚」、「喉」や「食道」、「胃」や「腸」でしょう。
創造主が人間に光の存在であることを知ってもらいたいのであれば、わざわざそんな七面倒くさい「食べる」というプロセスを創造することなんてするはずもありません。
「食べる対象物」を味わい、「食べるを通じた身体的変化」を味わい、そして、「食べるから派生する様々な人間的繋がり、悲喜こもごも」を味わい、体験したいがために、「食べる」という機能は備わったと見るのがもっともであると、私は考えます。
もちろん、体験したいと思った張本人は、創造主です。私たち人間は、創造された存在であると同時に、創造主でもあるのです。



人間が霊的に向上すべきか否かなどという問題は、「個」である人間のおよぶところではありません。
すべては「全」である世界が決めます。



けれどもここまで私が書き記してなお、「人は食べなくても生きられること」を伝達し、たくさんの人々を救いたいという無尽の情熱を燃やす人があれば、その人はそうするべきです。そこまでの想いであれば、それがその人の宿命であり、世界がその人に託したその人の歩むべき道だからです。



ですが、先ほどもお話ししたように、ことはそう単純ではありません。
その情熱には、強大な逆風が吹き荒れるでしょう。
丈夫な大木にしがみついたとしても、その大木すらも、根こそぎ吹き飛ばすほどの強風です。
なぜなら地球人類が織り成すこの現代社会は、「金」という「血液」を送り出す「心臓部」に鎮座まします支配者が統治する世界です。
生き延びるためにより多くの「血液」をかき集め、自社に流し込み続け、前年度比以上の経常利益を出し続けなければ滅ぶしかない「大手食品業界」が、「食べる量を減らしましょう」などという風潮を黙って見過ごすはずがありません。
グルメ番組を放送するテレビ業界も、料理本や食べ歩き本を取り扱う出版業界も、大型スーパーやファーストフード、コンビニ、大手グルメサイトなども、同様です。
そして、世界が健康な人々であふれかえってしまったとき、深刻な被害をこうむるのが「医療業界」や「製薬会社」です。
巨万の血液が日々流入する「医療業界」や「製薬会社」が、「食べなければほとんどの病が治ってしまう」などという風潮を黙って見過ごすはずもありません。





やはり、ことはそう単純ではないのです。
世の中をよくしてくれるはずの発明や思想が、お金に結びつかないもの、どころか、遮るものとなるなら、それは心臓から血液を送り出している者たちや、心臓からの大きな恩恵を受けている各臓器(政治家や官僚や大手メディアや大手企業)に疎まれ、容赦なく排斥されるのです。
世の中をよくする、ということは、イコール、それら強大な力を持った勢力(イモータン・ジョーやその配下たち)と対峙しなければならないことを意味するのです。






とはいえ、形あるものも、形なきものも、いつの日にかは必ずや崩壊します。
それは支配する側も、支配される側も同じです。
ですが、それがいつかは、世界のみぞ知ります。
あなたが食べずに生きる人間へと変態するのか。
それとも今までと変わらぬ食生活を送り、そのまま最期の日を迎えるのか。
いずれにしても、そこに優劣や善し悪しなどありはしませんし、
このふしぎ発見を読んで以後、あなたが歩む道もまた、世界のみぞ知ります。
あらゆるすべては、世界のみぞ知るのです。






最後に、修行最終日のエピソードを記して、
「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見」を終わりにしたいと思います。


4日目。夕刻よりも少し前。
相も変わらずの祝詞を唱えさせられていたところ、ラストスパートとばかりに、屈強な指導者たちに取り囲まれ、方々から罵声を浴びせられ、身体を揺さぶられ、鞭打つように手刀が飛んで来ては、もみくちゃにされます。


4日間ものあいだ、(申し込み間違えたのは自分のせいとはいえ)さんざんやられてきた憤懣が大爆発し、私は前にいた指導者の誰かを突き飛ばし、立ち上がってしまいます。
するとあっという間に取り押さえられ、「なんて我の強いけがらわしい奴だ!」などとこの禊の会の代表であろう男に睨みつけられ、広間から薄暗い廊下を奥へ奥へと移動した、ロウソクの灯りだけの薄暗く狭い個室へと連れていかれます。
神道的装飾がほどこされた、とても怪しげな雰囲気の個室でした。




正座した状態で待たされていると、宮司の格好をした先刻の代表が、長々とした祝詞を北朝鮮ニュースのアナウンスのごとく、大仰な口調で読み上げ、「この男の罪穢れを残らず祓いたまえ!」といったことを叫んだかと思うと、再び指導者たちに取り押さえられ、頭を床に押し付けられ、「さあ吐け!すべて吐き出せ!もっとだ!もっとだ!まだ出て来るはずだ!」と、身体を前後に揺さぶられ、胃液が出そうなほどに口を開け、罪穢れを吐き出すことを強要されます。




この完全にイッてしまっている宮司を納得させるために、俳優を目指していた頃の血が目覚めたかのような、迫真の演技?で、罪穢れを吐き出す動作をひたすらくり返し、声にならない声を吐き出し続け、わけがわからなくなってきて眩暈がしてきたころに、ようやく納得したのだろう宮司に私は解放されました。




広間に戻ると、まるでこれまでの4日間がドッキリであったかのように、厳めしい顔を崩さなかった関係者たちは、手に持った鐘をふりながら、満面の笑顔でいつもの祝詞を唱え、アメリカ人3人と日本人1人の修行者も、同様に満面の笑顔で同じことをしています。
呆然と立っていると私にも鐘が渡されたので、私も見よう見まねで同じことをやりました。



間もなく、指導者たち全員が立ち上がり、拍手が巻き起こり、

「よく耐えたぞ!」
「よくここまでやりきった!」

などといった賛辞の声を私たち5人は集中砲火され、指導者たち一人一人と固い握手を交わしました。
他の4人は号泣していましたが、申し込み違いでうっかり巻き込まれた感が終わってもなおぬぐえなかった私は、まるで部外者であるかのように、うまくその空気に溶け込めずに、なんとなく誤魔化して泣き顔をしてみたりしてました。




代表から一人一人終了書を授与し、4日ぶりの入浴をさせてもらい(このとき、手足が凍傷になっていることに気づきます)、道場に来て初めて見かける女性たちが、夕飯の準備をしているキッチンを横切ると、修行に携わった全員分のお弁当とビールが並べられた会食席が設けられていましたが、「今日までは」という思いがあった私は、それを食べずに持って帰ることにしました。
修行を終え、安堵に心休まってなお、猛烈な空腹感や飢餓感のようなものはありませんでした。食べてもいいし、食べなくてもいい。そんな心境でしょうか。いずれにしても、とても疲れていました。




席では自己紹介の時間がありましたが、そこで私は初めて間違って申し込んでしまったことを打ち明けました。
どうして頑なに食事を拒んだかも、確か話したような気がします。
呆れた指導者たちの顔と、日本語が堪能でプロレスラー体型のアメリカ人指導者が、

「ムリムリムリムリ、ありえないでしょそれ。逃げるでしょ普通」と、若者口調で首をふっていたのが今でも忘れられません。




他の4人との別れ際、何かとても感動的な、大事な言葉を交わした覚えがあるのですが、今こうして思い返そうと試みると、まったく思い出せない残念な記憶力の自分がいました。
3回にも渡り、禊にまつわるふしぎ発見を長々と書き連ね、いま切に思うことは、2度とあんな思いはごめんだ、ということだけでしょうか。

でも、この話をするとどの人もだいたい笑ってくれるのです。
そういう意味ではラッキーな体験だったと言えるのかもしれません。













あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
いずれあなたにおとなうであろう「発見」によりそっています。

今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「Born Slippy / UVERworld(ウーバーワールド)」
原曲 Born Slippy / UNDERWORLD(アンダーワールド)
作詞 Karl Hyde

Hi mum are you having fun
ハイ ママ 楽しんでるかい
And now are you on your way
そして今 新感覚の緊張性頭痛みたいな
To a new tension headache
あなたの道を歩んでいるかい






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ふたつと同じ花が咲くことはなく、訪れたその人だけの、その人に出逢う運命を担っていた花です。
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絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 中編

初日の一食目を頬張る、他のアメリカ人3人、日本人1人をよそに、私は目を閉じ、呼吸にだけ集中しながらじっとしていました。
そのときの自分が考えうる、最善の食欲抑制手段でした。



ところが、時間が経過していくとともに、私にとって空腹感や飢餓感は切迫した問題ではなくなっていきます。
厳密には、空腹感や飢餓感を感じなくなっていった、という方が正しいかもしれません。



そうなった大きな要因は、3つあると考えています。
ひとつは、「危機感」です。



本を読み進めることを止められず、気がついたら朝になっていたり、テレビゲームに夢中になった世代の方であれば、寝食を忘れてゲームに明け暮れた経験があるかと思います。
あるいは子供のとき、日が暮れても夕飯のことなどおかまいなしに、目の前の遊びに夢中になった経験があるかと思います。
これらの思考が排された「今」に在る感覚は、「ワクワク」だったり「好奇心」のようなものからだけ生まれて来るものだと思われがちですが、この感覚は、「危機感」「恐れ」を感知した際にも発揮されます。
たとえば「スリル」という感覚は「ワクワク」「好奇心」寄りの感覚ですが、その紙一重隔てた裏側で「危機感」「恐れ」が盛り立ててくれているからこその「スリル」です。バランス次第ではこれは、「しまった…どうしよう」にもなりえます。状況次第でいくらでも玉虫色に転がりうるわけです。




なんらかの大きな災害に遭われた方や、大きなトラブルに巻き込まれた方、家族の誰かが危機的状況に陥ったことがある方ならよくわかると思うのですが、気を緩める隙が見当たらないような状況に置かれたとき、人は眠くなどならないし、食欲など起こらないものです。
もし、それらの欲求が起こるときは、その人がその出来事に対してそれほどの危機を感じていないか、状況が把握できて冷静さを取り戻したか、その状況に慣れたか、状況が治まって気を緩められる余裕ができたか、などです。




人間は、いかなる危機的状況であっても、時間が経過するに連れ、その状況に適合しようとする生き物です。
私にも、「なんでこんなことになっちゃったんだろう」「早く帰りたい」
「次の休憩はまだか」「家族は今頃何をしてるだろう」「もう肩も喉も足も限界だ」

などといった「過去」への後悔「未来」への希望をよぎらせるだけの余裕が見えてきます。
これこそがみなさまお待ちかね、「煩悩」ないしは「苦」の始まりです。
そしてそんなときにこそ勢いを増して来るものが身体的苦痛ですし、今回のケースだと飢餓感や空腹感、殴打による肩の痛み、声出しによる喉や腹筋の疲労、正座していることによる激しい足痛、猛烈な寒さなどです。
何の準備もできていない者がこの状況に放り込まれたなら、

「オレの人生もここまでか…」

と思えてくるような、まさに絶望的な状況であると言えます。




ここでふたつ目の要素が私を支えてくれます。
それは、「言葉」です。
絶飲絶食を決断できたことも、まさに言葉による力の賜物でした。
言葉はときに、身体的苦痛をも弾き返すエネルギーとなるのです。
「言葉のプラシーボ効果」とも言えるかもしれません。




そんなエネルギーを与えてくれたものは、修行のきっかけとなった数冊の本であり、それらは道場での眠れない夜の、一条の光となりました。

一冊は、山田鷹夫著 「不食 人は食べなくても生きられる」

もう一冊は、パラマハンサ・ヨガナンダ著 「あるヨギの自叙伝」

他にもあった気がするのですが、どうも思い出せませんでした。



のちに山田氏とは手紙のやり取りをしたり、直接お会いして語りあう機会などありましたが、お互いの方向性の行き違いなどから、次第に疎遠になっていってしまいました。私は「鷹さん」という愛称で呼ばせていただいておりました。
よくもわるくも、筋金入りの自由人に違いありません。
もう私のことは憶えていないと思います。ですが、鷹さんはそれでいいのです。それでこその鷹さんなのです。
「人は食べなくても生きられる」という常識を覆す逆説的発想にとどまらず、面白いと思うことがあれば自ら実践して確かめる姿勢、その姿勢そのものが喜びであることを私に示してくれた、そんな人物です。
この記事を書きながら久々にフェイスブックを覗きましたが、相も変わらずの独創的実践思想観にうれしい思いになりました。
鷹さん、相変わらずですね。





そしてもう一冊の、「あるヨギの自叙伝」(この本については後編で後述します)。

これらの本が、

「人は食べなくても生きられる。これからその真実に触れることができるんだ!」

そんな高揚感好奇心と、現状況に対する危機感と恐れのスパイスが、私に禊修行を乗り切る力を与えてくれたのです。





3つ目の要素は、飲食を絶ったことによる飢餓状態が、身体になんらかのプラス作用を及ぼし、絶飲絶食の後押しをした。ということです。





ドイツ強制収容所での体験記録を綴った本に、「夜と霧」という作品がありますが、
著者のフランクル教授の、こんな記述が残っています。 



人間には何でも可能なものだというかかる数多くの驚きのうち、たとえば次の幾つかのことだけでも引用しておこう。
すなわち収容所生活の始めから終わりまで一度でも歯を磨くことはできず、また食物の明らかに著しいヴィタミン不足にも拘らず、以前の最も健康な栄養の時代よりもよい歯肉を持っていたということである。
あるいは半年間も同じシャツを着て、そして最後にはどう見てもそれはシャツとは言えないようになり、そして洗濯場の水道が凍ってしまったために一度も洗うことができず、また手は土工の仕事で汚れて傷だらけであったにも拘わらず、一度も傷が化膿することはなかったということである(もちろん凍傷になれば話は別であるが)。
あるいは以前は隣の部屋のほんの一寸した音でも目を醒まし、もう眠れなくなった人間が、同僚の囚人とぴったり押し合って横になり、彼の耳の数センチの所に同僚の鼻が恐ろしいいびきを響かせていても目を醒まさず、また横になるや否や深い眠りに陥るのであった。




もうひとつ、こんな例もあります。
2010年、チリのコピアポ鉱山落盤事故のニュースを覚えていますでしょうか。
地下634mの坑道内に、作業員33名が閉じ込められた、あの事故です。


全員が救出されるまでに69日間もの期間を要したこの事故。
生存確認がされる18日目までの間、気温36度、湿度80%以上の閉ざされた劣悪な環境の中、彼らは48時間置きに一人当たりツナ缶2さじ、クラッカー1枚、牛乳2分の1カップの食事量で生き抜いたと言います。33人が、全員です。


この件に関しては、作業員を混乱におとしめることなく、最後まで平等で厳格な食事分配をし、作業員たちの自己管理や生活管理を徹底させ、秩序をも保たせたリーダー、ルイス・ウルスァ氏の統率力と、33人の結束力が素晴らしかったことはもちろんですが、日本人の一般家庭の一回の食事量の半分にも満たない食事量で、全員が生き延びたということは、耳を疑った方も多かったかと思います。


しかも、です。
作業員たち全員に、健康上の問題はほとんど何もなかったのです。





最終的に私は4日間の禊と絶飲絶食を達成するわけですが、肉体的精神的ダメージと蓄積する疲労が深刻な状況の中で、飲まず食わずの修行をやり遂げることができたことは、私にも炭鉱作業員やフランクル教授と同じ身体的変化が起きていたと見て間違いなさそうです。




以後、絶飲をすることはしてませんが、20日間ほどの長期絶食(断食)だったり、1日~2日程度の短期絶食を今でもそのときの気分や目的や体調によってやります。
1日1食で過ごすことがあれば、2食のときもあったり、間食もたまにしたり、ときには食べすぎ飲みすぎで頭も体も鈍重化し、何もできなくなったりする自分も楽しんだりと、あまりこだわることのない食生活を現在は送っていますが、明らかな身体の劇的変化は、1食も食べずに(空腹を感じることもなく)夕方から朝までの夜勤などをこなしたりできるようになったこと。内科的な事情で病院に行くことがほとんどなくなったこと。風邪をひきにくくなり、もしひいても完治するまでが早いこと。胃腸などの臓器が以前より断然丈夫であること。肌が荒れにくくなったこと。年齢よりも若く見られること。1日3食を食べていた頃より睡眠時間が短くなったこと。などでしょうか。

あ。それともうひとつ。
なんらかの災害が起き、食べ物や飲み物を得られなくなったとしたらどうしようか、という恐怖。
一文無しになってホームレスになったとしたら、飲食はどうしようか、という恐怖。
それら不意の飢餓的状況への恐怖がいっさいないことです。





実践者の中には、サイキックな能力に目覚めた方だったり、真冬に裸でも寒さを感じない身体になった方だったり、生活習慣病やアルツハイマー型認知症、あるいは末期的な病から回復した方だったり、思考回路が度を越してクリアになった方だったり、老人斑(シミ)がちいさくなった方だったりだとか、視力が回復した方だったりとか、かつて水野南北が説いたように、そのおかげで運が向いてきたと判断するような方もいたりします。





なにゆえ身体は、食べなくても平気な身体に変化したのか。
このこともまた、長寿遺伝子(サーチュイン遺伝子)と呼ばれる遺伝子の発露だったり、体内に生息する微生物の変化だったり、プラーナ摂取(太陽エネルギー)だったりと、様々な諸説があるので、興味がある方は自分で調べてみて、自分だけの正解を探索してみることをお勧めします。何が正解かは、自分の肉体でもって確かめるのが一番の最短距離です。
また、少食における体の変化の記録を綴った文献や、科学的データを元に様々な推論を立てた文献、精神世界と食との関連性を記した文献など、いろいろあります。
私の方からも、ブログにて少しずつですが紹介していけたらと思います。









2回で収まりませんでした。
次がようやく後編(最終回)です。
最後に重要な問題が残されています。
「ではなぜ、飢えて死ぬ人間と死なない人間とがいるのか」












あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
いずれあなたにおとなうであろう「発見」によりそっています。

今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「さよなら人類 / たま」
作詞 柳原幼一郎

今日 人類がはじめて
木星についたよ
ピテカントロプスになる日も
近づいたんだよ






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絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 前編

1日3食。
1日30品目。

足し算の栄養学を子供の頃から植え付けられ、それを常識として生きてきました。
飢えればやがては餓死するし、栄養のないものを食べていては、病気になったり、衰弱していくことになる。
だからこそ、なるだけバランスよく様々な栄養素を摂取することが健康への最善策であると、そう信じて生きてきました。
ですが、東日本大震災が起こった翌年1月、その思い込みは根底から覆されます。



数冊の健康法や精神世界の本をきっかけに、
絶飲絶食の座禅瞑想を決行してみたいと思い立った私は、
3泊4日の修行を承っていた道場に修行を申し込みます。
自宅で生活しながら絶飲絶食を決行するのは、いつでも食べる物がある誘惑に惑わされない自信がありませんでしたし、家族の存在があり、私が家族の食事を作らなければいけない立場でしたから、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。
水さえも絶っている状況で、料理などできるとはとても思えませんでした。



ところがいざ道場へ行ってみると、思っていた感じと様子が違います。
修行を受ける側と修行を見守る側の人数のバランスが、明らかにおかしかったのです。
修行を見守る側が20人ほどいるのに対し、受ける側はたったの5人です。
しかもどちら側も、嵐の前の静けさであるかのような、異様な空気を放っています。
携帯電話や貴重品は没収され、若いアメリカ人が3人と、中年の日本人が1人、そして私を含めた計5人が、殺風景な6畳の和室へ荷物を置かされ、御本尊のある広間へと案内されます。



雪が降りしきる、凍える寒さの真冬の夜、暖房のない広間で、ヤフオクで手に入れた柔道着1枚に身をつつみ、正座させられ、始まったのが、自分が持つ最大の声量で、ただひたすらに短い祝詞(マントラ)を唱えさせられる、というものでした。



私は後戻りができない段階になって、ようやく気がつきました。
「…これって座禅瞑想じゃなくて禊(みそぎ)修行じゃんよ!」





あとから分かったことですが、私はスケジュールを見間違えて道場に申し込んでしまっていたのです。





座禅が「静」の修行であるなら、禊は「動」の修行です。
言うなれば、度が過ぎた体育会系の世界みたいなものです。
陽もまだ昇らない時間に大太鼓が鳴らされ、どこに潜んでいたのか、道着姿の屈強な道場関係者が、さらに人数を増員した状態で部屋になだれ込み、たたき起こされ、コンサート舞台裏の衣装替えのごとく、数秒で布団は撤収されます。
布団とはいっても、まるで敷布団を上に掛けているかのような、ずっしりと重く、サンドバックのように固い、布団とは呼べない拷問布団です。これがちっとも暖かくならないのです。
私は布団に入りながら、ノースフェイスの雪山用ダウンジャケットを着て寝ていました。にもかかわらず、身体中が24時間キンキンに冷えてました。




そして、早朝から晩まで、ひたすらに正座しながら、同じ祝詞を全力で唱え続けます。
まさに、全力です。声が嗄れようがつぶれようが、全力を要求されます。
日を追うごとに、余力を少し残しつつ全力でやっているかのような小芝居ができるようになりましたが、一日中やらされるわけですから、その余力もほどなく尽きてしまい、あまり意味がありませんでした。
疲れて手を抜いたり気合が足りないと判断されれば、真後ろで同じように祝詞を唱える道場関係者たちに、背中や肩を手刀でおもいきりぶたれます。何度も何度もぶたれます。
すっかり肩が腫れ上がり、痛みに耐えられなくなった私は、柔道着の中にタオルを忍ばせ、叩かれる部分にあてたりしましたが、バレるのに時間はかかりませんでした。




2時間置きくらいに15分くらいの休憩がありましたが、2日目くらいから、アメリカ人の3人も、もう1人の日本人も、何の言葉も出ないほどに憔悴しきっていました。
私は英語が話せませんでしたが、ハグをして慰めあうだけで、この時の5人の中に他に言葉は必要ありませんでした。




食事は朝昼晩の1日3食、麦飯と味噌汁と漬物だけの精進料理がありましたが、何を血迷ったか、私は意地になりたい気分になって、こう決めたのです。
「こうなったら3泊4日、絶飲絶食で乗り切ってやる」






次回に続きます。








あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
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今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「ノーベルやんちゃDE賞 / スチャダラパー」
作詞 M.KOSHIMA・Y.MATSUMOTO・S.MATSUMOTO

やんちゃー 使命か本能か 何がそこまでさせるのか
やんちゃー 世間に風穴を あくかな?でもやるんだよ






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「どみどりくん」あるいは「じゃっく」へのメッセージ

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やあやあ、よく来てくれたね。

じゃっく&どみどりくん

Author:じゃっく&どみどりくん
オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』の、姉妹ブログ『どみどりくんの、世界ふしぎ発見』に遊びに来てくださりありがとうございます。管理人のじゃっくと申します。

『オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』が「表通り」を行くブログなら、こちらのブログは「裏通り」を行くブログです。
両方合わせてようやく私のメッセージの完成形となりますが、選り好みして「表通り」だけ見てもらってもまったく問題ありません。
来るべきときが訪れたなら、おのずと「裏通り」も歩かされている自分を発見されますから(ニヤリ)

で、この「裏通りブログ」が何故に必要なのかと申しますと、早い話が「表通り」だけでは解決できない、処理しきれない問題(絶体絶命のピンチ)に、人は前触れもなく遭遇するからです。
誰しものそのときのためにこそ、私「じゃっく」が、フシギニストである「どみどりくん」に扮し(チャネリング?)ながら、この「裏通りブログ」は存在し続けます。


「世界ふしぎ発見」とは言っても、某テレビ番組が世界における「目に見えるふしぎ」を発見して紹介するのとは趣がちがい、このブログでは世界における「目には見えないふしぎ」の発見を書き記することを趣旨としています。

ですが、「目には見えない」とは言っても、「UFO」「超能力」「幽霊」といった類のものとは趣が違いますし、「スピリチュアル」ともまたちょっと違うのかもしれません。
「哲学」「宗教」とも言い切れませんし、「自己啓発」「人生哲学」ともまた少し違うかもしれません。

しいて言うなら、みなさんが今まで生きてきた中で、学校教育や家庭教育やマスメディアによって抗いようもなく培われ、育くまれた「常識」「当たり前」「思い込み」「偏見」「先入観」などをとっぱらった先にある「あるがままの世界」あるいは「究極の羅針盤」の発見ってところでしょうか。


たとえばですが、

『きみが何を考え、何に思い悩み、何を行為しようとも、きみ自身は実は何もしていないのさ』

いきなりこんなことを断言されたとしたら、どう思うでしょうか。
「うん、そうだと思ってた!」という方は、おそらくは皆無に近いかと思われます。
おそらくは「あ…ちょっとこの人、ヤバイ宗教とか入ってる感じの人なんだろうな。かかわらないようにしよう…」
おおかたそんなところではないでしょうか。

ですが、私は特定の宗教を信仰していませんし、歴史上の人物や現存するいかなる人物も、敬いはしても崇拝するような対象にはなりません。この先もずっと。




そもそもはこの「裏通りブログ」から私のブログ人生が始まり、私を通路として見い出されるふしぎ発見を、誰かと分かち合い、この「リアル人生ゲーム」に活かしたいがために、2つ目のブログ『オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』を作るにまで発展してきました。

「分かち合い」ほどの、いち人生を賭けるに値する究極の財宝、自他一挙両得のベストバイブスは、他に見当たりませんもの。
自分がまずうれしいし、同時に誰かもうれしいだなんて、はっきり言って
最高!

じゃないですか。







「ふしぎ発見!」の終わりに、みなさまを発見へといざなう楽曲も紹介しています。よろしければあわせて楽しんでください。
※和訳した歌詞は、英語力のない私がグーグル翻訳を参考に、個人的解釈で訳したものなので、ちょっとおかしいよっていう訳もあるかと思いますが、大目に見ていただけましたら幸いです。

カテゴリの中の「スーパーふしぎ発見」には、ブログの核となる発見かな、と思われるものを並べています。まあ、だからどうってわけでもありません。

カテゴリの中の「映画」がいざなうふしぎ発見については、ネタバレしているものがほとんどなので、どうか「この映画これから見ようとしてたのに(泣)」なんてことにならないようお気を付けください。

一度投稿した「ふしぎ発見!」も、一年くらい間隔をあけて読み返すと「うーん…なんでこんなふうに書いたんだろう」「この表現は不適切だなあ」「今ならこんな言葉は使わないなあ」といったことがよくあります。
私はまったくいとわず何度でも記事を修正します。
修正することによって、伝えるべきメッセージが進化しつづけていることを私自身実感できますし、過去記事と現在の記事とで違いすぎるがために読者を混乱におとしいれてしまうような事態も軽減されます。
投稿日に対してコメントの日付が古い記事は、「あ、修正した記事なんだな」と思ってください。




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