ここからはきみ次第。きみがきみの「命にふさわしい」選択をする番だよ。

なんだかんだ言っても結局のところ
お金がすべてだよねっていう
そういう価値観の人は
このブログは読まないだろうけれども
そういう価値観で生きる人たちを
きみだったら軽蔑するだろうか
こころが貧しい人間だと思うだろうか

ぼくはというとね
「そういう人生もあるよね」っていう
ただそれだけのこと
なんだ



結局のところ
地位と権力を勝ちえた人こそが
もっとも幸福で
もっとも安全で
人生の勝者であると
言い聞かせられ
育まれてきた
そんな人は
このブログは読まないだろうけれども
そういう価値観で生きる人たちを
きみだったら軽蔑するだろうか
こころが貧しい人間だと思うだろうか

ぼくはというとね
「そういう人生もあるよね」っていう
ただそれだけのこと
なんだ



自分さえよければ
他人を蹴落としたっていい
他人を見殺しにしてもいい
この世界は
弱肉強食であると
裏切りや背徳にもまれ
あらゆる負の要素を
当たり前の前提に
生きざるをえなかった
そういう人は
たぶんこのブログは読まないだろうけれども
そういう価値観で生きる人を
きみだったら軽蔑するだろうか
こころが貧しい人間だと思うだろうか

ぼくはというとね
「そういう人生もあるよね」っていう
ただそれだけのこと
なんだ



どんな残念な人だろうと
どんな気取った人だろうと
どんな立派な人だろうと一緒だよ
このぼくが
今の肉体ではなく
ほかの別な誰かとして
まったく同じ肉体を享受し
まったく同じ時代
まったく同じ環境や文化
まったく同じ人間関係の中で生きたならば
寸分たがわぬ歯車の噛み合いの中で
寸分たがわぬ人生を生きるのだから
その肉体を得たぼくは
たとえば他人を蹴落とし
たとえば他人を見殺しにし
たとえば地位と権力にしがみつく
その肉体の人生と同じ人生を生き
その肉体の人生と同じ最期を迎える
んだ


どうしてかって?
肉体が個としてのその人を象っている
鋳型のようなもの
だからね

肉体をとっぱらってしまえば
誰しもに個性なんてものはなくて
みんながたったのひとつだけの存在



肉体を失ったなら
魂や霊体やエーテル体のようなものとして
「個」は保たれるんじゃないかって?

それもまた先の話とおんなじ
魂や霊体が見える人には
魂や霊体が見える人の真実があって
守護霊や高次元の存在と会話ができる人には
守護霊や高次元の存在と会話ができる人の真実があって
どれが正しいわけでもないし
どれが間違っているわけでもない




ぼくにとっては
魂も霊も高次元も神も命も空(くう)も仏も真理も
どの言葉もみんなおんなじ

今日はペペロンチーノにしようかな
ナポリタンもいいな
でもやっぱりジェノベーゼかなっていう
そのていどのちがい

そしてそれもまた
「ぼくにとっての真実」にすぎない




さあ
ここからはきみ次第
きみがきみの「命にふさわしい」選択をする番だよ

だいじょうぶ
きみがいかなる選択をしようとも
真の意味できみから何かが失われるようなことは
決してないんだから








きみのその身に
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても
ぼくは変わらず
いずれきみにおとなうだろう「発見」によりそっているよ

今日のきみを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「命にふさわしい / amazarashi」
作詞 秋田ひろむ

友達ができた
理想を分かち合った
向かうべき場所に
歩幅すら共にした
裏切られたっていいと
道端ひれ伏すような
酩酊の夜明けこそ
命にふさわしい




パクチーの種を差し上げます。
詳しくはこちらの記事↓を読んでみてください。

http://domidorikun.jp/blog-entry-435.html

希望のメールを下さった方へ 
メールを送信してから10日経っても届かないようでしたら、またメールください。




この土壌(ブログ)に植えられた種(言葉)は、訪れたその人が読むことによってのみ、開花します。
ふたつと同じ花が咲くことはなく、訪れたその人だけの、その人に出逢う運命を担っていた花です。
この土壌に意義を見い出した方は、ご支援のワンクリックをいただけましたら幸いです。
関連記事

テーマ : 詩・想
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

konchikiさん

こんなこと、konchikiさんの認識レベルの人にでなければ言わないことだけれど(もちろん、高いから偉いとかいうことではなく)、いずれまたここにまた訪れようとも、二度と訪れることがなかったとしても、それはkonchikiさんが選んだことではないし、konchikiさんを通過してゆく考えや感情もまた、オートマチックにkonchikiさんの「こころ」として勝手に想起され続けていくだけ。これから先も、ずっと。

究極的には、ぼくがかかげてきたサブタイトルのとおり、
「きみが何を考え、何に思い悩み、何を行為しようとも、きみ自身は実は何もしていないのさ」
ってこと。
これ以上身も蓋もない話もないから、最近は滅多に言わないけれどね笑

何度konchikiさんにありがとうって言っただろうね。
また、言える日が来るといいな。

ありがとう。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

konchikiさん

いろんなメッセンジャーを知っていて、スピリチュアルや精神世界に造詣が深いkonchikiさんが、生まれて初めて助けを求めた人間が、よりによってぼくだったということが、今までもらったどんなコメントよりもうれしかったし、おもしろかった笑
そして、勇気になった。
ぼくがしてきたことはムダじゃなかったと思えたし、ぼくにもまだ人の心を動かせるような何かができるかもしれないって、パワーが湧いてきた。
まさに、konchikiさんが体験したような、心に力が入って来るような感覚。
感謝の言葉じゃぜんぜん足りないくらいの感謝。
ありがとうね。ありがとう。

世界中の人がおまえの話は思い込みだとkonchikiさんをバカにしたとしても、konchikiさんがあの蝶はあの子だったんだと語るなら、ぼくも一緒にあの蝶はあの子だったんだって、堂々と語る。
ぼくにとってそれが思い込みなのかどうかなんてことよりも、konchikiさんが笑顔で、楽しく、ときにはかなしく、苦しく、けれども自分らしく生きれることのほうが、ずっとずっと大事。
今は、konchikiさんとこうしてふたたび繋がることができた、ただそれだけの真実で充分なんだ。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

konchikiさん

まず初めに、konchikiさん、またkonchikiさんとお話しできることが、素直にうれしい。
ただそれだけのことが、ぼくには宝物のように思えるんだ。
だって、もう二度とお話しできることはないと思っていた相手とお話ができるんだもの。
嫌いになって別れた相手じゃないんだもの。

そして、スピリチュアルにしてもなんにしても、これだけ情報や幸福のカタチが多様にあふれかえる現代社会にあって、ふたたびぼくを頼りにしてくれたことがまたうれしい(こんなぼくにだって承認欲求はあるんだぜい)。
他にもっと上手に、スマートに、ユーモラスにスピリチュアルを語る人はたくさんいるし、ぼくの存在が何か目新しいわけでもないから、飽きられたり、嫌われてしまうことはちっとも不思議なことじゃなかった。だからkonchikiさんが来なくなったことも、さびしく思っても不思議には思わなかった。

こっちのブログをすっかりおろそかにしてしまって、ほとんど更新することもなくなってしまって、本当にごめんね。あれだけ続けると言ってたくせにね。
konchikiさんがじゃっくよりもぼくを好きっていうから、じゃっくは遠慮してぼくにバトンタッチすることになったよ笑

じゃっくがこっちのブログに書けなくなったのは、konchikiさんがしばらくスピリチュアルから離れたくなったのと同じような理由かもしれない。でも、それは別にわるいことなんかじゃなくて、自然の摂理みたいなもの。
水が低いところに向かって流れてくのとおんなじで、人は鮮度に向かって流れて生きているから、ぼくが新しいブログを立ち上げることも、あらがえない何かだった。
どみどりくんのことはじゃっくが大好きな存在だから、ブログを失くしてしまうことまではできなかったみたい。少しずつでも、続けていけたらなって思ってたみたい。
でも、じゃっくはあんまり頭の回転がよくないし、要領がよくないから、途中から手がまわらなくなっちゃったようだね。
コメントも誰からも来なくなっちゃったブログだけれど、消さなくてよかったって、じゃっくが。
もしかしたらkonchikiさんのこのときのために、ブログは残されていたのかもね。


幼い猫とともに過ごした思い出、まるでぼくもkonchikiさんと猫と一緒にそこにいて、一緒に最期のときまで過ごしたかのように、konchikiさんの文章を味わって読んでいたよ。
ぼくは生きもの全般が好きだし、子供の頃にまちがって踏んじゃったひよこだったり、大切に毎日を過ごした亀を二度も自分のミスでうしなった経験があるから、konchikiさんの気持ちは痛いほどわかるつもり。でも、親密度合の濃さがぜんぜんちがうね。亀はケージの中だけど、猫とkonchikiさんは同じ生活空間で、寝食をともにするように過ごしたんだもんね。

二度目に亀をうしなったときは、じゃっくが今やってるブログでそのときのことを書いたんだ。
あんなに叫ぶように泣き続けたのは、一度目に亀をうしなったとき以来だって。
一度目のときは覚醒前だったけれど、二度目の亀のときもかなしみの深さには変わりなかった。
そして二度目の亀は、決まっていることだとわかっているぼくだからこそ、余計にダメージが大きくなるような死に方をしたんだ。まるで運命がぼくを試すようにね。
だから、かなしいだけじゃなくて、怒りさえも沸き上がったよ。
「ぼくにこんなイジワルなシナリオを用意しておくなんて!」ってね。
ぼくが自分で伝えてきたこと、運命はその人がどれだけ成長した意識ステージに移行しても、その防御壁をかいくぐってその意識ステージにふさわしい試練を運んで来る。ということを、自分の手で証明してしまった。
ぼくにできることは、かなしみと怒りとを、ひたすらに受け入れることだけだったよ。ぼくがしたことは、本当にただそれだけ。雨風に打ちつけられながら、台風が過ぎ去るのをじっと待つみたいにね。
昔の人は「悲しみ」を「愛しみ」とも書いたそうなんだけれども、その理由がぼくにはとてもわかる気がするの。
だって、そこに愛がなければ偽りなくかなしくなんかならないもの。
かなしみが深ければ深いほど、そこにある愛もまた深いはずなんだ。
そしてこのことは、人として生を受けたことのなかでも、もっともと言ってもいいくらいに、とうといことだと思うんだ。



それと、「あの世」の話。
これはあくまでぼく個人の見解として受け止めてほしい。
人が「あの世」のことを語るとき、たとえそれが臨死体験をしたという人の話であっても、それはあくまで「この世」の話をしてるにすぎないと、ぼくは考える。
なぜなら、古今東西、「あの世」の話をしてきた人たちはどの人も「死んだ人」ではなく「生きてる人」だから。
臨死体験者の体験談がウソだとは思わないよ。けれどもそれは、脳内作用か、あるいは脳がなんらかの情報を受信した結果起きている作用だとぼくは見ている。
だって、「あの世」は、厳密に言えば、「あの」とか「この」みたいに、ぼくら人間が共通して持つ基準や物差しで指し示すことができる領域じゃないから、言語化することがそもそも不可能で。
これは「悟り」が言語化できない理由とまったく一緒。

このお話は、量子力学の「わからなさ」の本質を理解すると納得できるかもしれない。
よく、量子力学は「あの世の存在を証明した」だなんていう言い方をするんだけれども、厳密にはちょっと違うと思ってて。
ぼくらの世界の物理法則、「縦」「横」とか、「多い」「少ない」とか、「高い」「低い」とか、「光」「闇」とか、「ある」「ない」といった、あらゆる二元性を超えた未知の領域がある、ということがわかったにすぎないし、それは人間である以上永久に未知の領域。
「あの世」と呼んでいいものかどうかすら、わからない領域なんだ。
困った東洋の聖人たちは、仕方なくそれを「無」とか、「空」とか、「道」という言葉で言い表そうとした。
テレビゲームの中でだけ生きてるゲームキャラが、テレビの外の人間世界の仕組みを永久にわかれないのと一緒だね。
結局のところ「死んでみなきゃわからない」という結論に行かざるをえないんだ。
究極的には「死」も「生」も、ないんだけれどもね。


それとぼくは、輪廻転生はない、というスタンスでメッセージを発してる。
いや、言い方を換えれば、自分以外のすべての人間、すべての生命体が、輪廻転生した自分、というスタンスでメッセージを発信してる。
つまり、過去に存在した、未来にこれから存在することになる、自分以外のすべての人間、すべての生命体が、前世であり、来世なんだ。
だから、「霊魂」みたいなものがあると人が感じるのも、臨死体験の話と一緒で、脳内作用だってぼくは考える。
でも、本気で霊魂はあると思ったっていいと思うの。ないと思ったっていいと思うの。そうやってあえて多様な価値観の人間が生み出されるために、ぼくら人間は正解をひとつにしぼれない世界にいるから。そうやっていろんな学びや体験や化学反応が生まれるように、この世界はできてるから。




konchikiさんの求めていたような答えにならなかったかもしれないけれど、なんの解決にもならなかったかもしれないけれど、これがぼくからのアンサー。

konchikiさん、また会えてうれしかった。
いつこうやって来てくれたっていいし、離れていってくれてもいいんだからね。
一日に何十人からもコメントが来るようなブログになっちゃったら、こんなふうに時間をかけた返事が返せなくなっちゃうかもしれないけど笑

konchikiさん

konchikiさんごめんね。
話したいことがたくさんあって、なかなかの長文になりそうだから、ちゃんとした返事は明日する!

待ってて!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

小林真央死去

運命は変えられなかつたのか。
ご冥福お祈りいたします。

No title

>どりとるくん!(笑)

ごめん(笑)間違えた、ごめんねドミトリーくん

sayamaさん

sayamaさんの短いコメントが、ぼくの投稿した「ふしぎ発見!」の補足のような役割を担ってくれているよ。

いつもいつもありがとう。

メグさんもすごい!

自分ではない誰かが、自分の言葉でコメントをくれると、自分にはない別な言い方で、ぼくが伝えたいことを変換してくれるから、とてもみずみずしくて新鮮で、思わずハッとすることがあるよ。

つくづく、人間一人の力なんてたかがしれているなあと思う。

結局人間は、読んで字のごとく「人のあいだ」でしか生きれない存在ってことなんだね。


>本当にいろんな人がこの世にいる気がするけど、本当はいないのかなあと思ったりします!

うんうん。sayamaさんも言ってくれてるように、結局のところ、ありとあらゆる鋳型がそこらじゅうにあるだけなんだよね。

だからメグさんが言ってくれたとおり、「良いも悪いもひっくるめて人生を楽しむ!」これに尽きるなあって思う!

つっこみ忘れ

どりとるくん!(笑)

すごい!

konchikiさん、それ、すごい変化だよ。

「汚い自分、ダメな自分を認められる」ってことは、同じ程度で「汚い他人、ダメな他人も認められる」ってことと連動するんだ。

だから「世界が優しく見える」っていうのは、すごく理にかなってる!


でも、ぼくらは変化し続ける世界を生きているから、またどこかで汚い自分にがっかりしたり、ダメな他人が許せないと思う感情や思考が訪れるときが、これからも何度でもあると思う。
けれどもそれがあるからこそ、沖に流れた優しさは、負の感情と入れ替わりで岸へと還ってくるよ。

もし万が一
「あれ?おかしいな。なかなか還ってこないぞ…」
なんてときには、ここに遊びにきて憂さ晴らし!

No title

本当にいろんな人がこの世にいる気がするけど、本当はいないのかなあと思ったりします!
だから、みんな小説みたいに人生楽しめば良いと思う!
良いことも、悪いことも含めて!!
でも、私たちのまわりには良い人しかいないという事実があると思います。
どみとりさんのブログは色々考えられて、面白いです!

No title

うん、ごめんね、わかりやすく誇張して書いてるんだろうと思いつつ、
そして、どりとるくんの言いたいことは、わかってると思いつつ、
単純に反応して書いちゃった。


>konchikiさんが言う、「そういう部分」って、どんな部分だろう。

「汚らしい」という部分。
その立場になったら確実に自分も同じことをするんだろうなあって思うから。

でも、この頃は、修行(笑)の甲斐あって、汚いkonchikiも許せるようになった、すると不思議なもので、世界が優しくなったんだよね、不思議~


>sayamaさん
それだ!

No title

鋳型がなければみんな一緒か。

konchikiさん、こんにちは!

わかりやすくするために、ちょっと極端な例を書いてみたけれど、確かにそこまであからさまな人はなかなかいないかもね。

ちなみにぼくはそういう人に会ったことがあるけれど、あそこまであからさまだと呆れるのを通り越して逆にすがすがしさすら覚えた!
お友達にはなれなかったけれどもね。


konchikiさんが言う、「そういう部分」って、どんな部分だろう。

No title

そんなわかりやすい人みたことないなー
ていうか、konchikiはそういう部分のほうが多いや(;^ω^)

ワンクリックいただけると励みになります。
最新投稿
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
「どみどりくん」あるいは「じゃっく」へのメッセージ

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
どみどりな応援者
RSSリンクの表示
QRコード
QR
やあやあ、よく来てくれたね。

じゃっく&どみどりくん

Author:じゃっく&どみどりくん
オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』の、姉妹ブログ『どみどりくんの、世界ふしぎ発見』に遊びに来てくださりありがとうございます。管理人のじゃっくと申します。

『オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』が「表通り」を行くブログなら、こちらのブログは「裏通り」を行くブログです。
両方合わせてようやく私のメッセージの完成形となりますが、選り好みして「表通り」だけ見てもらってもまったく問題ありません。
来るべきときが訪れたなら、おのずと「裏通り」も歩かされている自分を発見されますから(ニヤリ)

で、この「裏通りブログ」が何故に必要なのかと申しますと、早い話が「表通り」だけでは解決できない、処理しきれない問題(絶体絶命のピンチ)に、人は前触れもなく遭遇するからです。
誰しものそのときのためにこそ、私「じゃっく」が、フシギニストである「どみどりくん」に扮し(チャネリング?)ながら、この「裏通りブログ」は存在し続けます。


「世界ふしぎ発見」とは言っても、某テレビ番組が世界における「目に見えるふしぎ」を発見して紹介するのとは趣がちがい、このブログでは世界における「目には見えないふしぎ」の発見を書き記することを趣旨としています。

ですが、「目には見えない」とは言っても、「UFO」「超能力」「幽霊」といった類のものとは趣が違いますし、「スピリチュアル」ともまたちょっと違うのかもしれません。
「哲学」「宗教」とも言い切れませんし、「自己啓発」「人生哲学」ともまた少し違うかもしれません。

しいて言うなら、みなさんが今まで生きてきた中で、学校教育や家庭教育やマスメディアによって抗いようもなく培われ、育くまれた「常識」「当たり前」「思い込み」「偏見」「先入観」などをとっぱらった先にある「あるがままの世界」あるいは「究極の羅針盤」の発見ってところでしょうか。


たとえばですが、

『きみが何を考え、何に思い悩み、何を行為しようとも、きみ自身は実は何もしていないのさ』

いきなりこんなことを断言されたとしたら、どう思うでしょうか。
「うん、そうだと思ってた!」という方は、おそらくは皆無に近いかと思われます。
おそらくは「あ…ちょっとこの人、ヤバイ宗教とか入ってる感じの人なんだろうな。かかわらないようにしよう…」
おおかたそんなところではないでしょうか。

ですが、私は特定の宗教を信仰していませんし、歴史上の人物や現存するいかなる人物も、敬いはしても崇拝するような対象にはなりません。この先もずっと。




そもそもはこの「裏通りブログ」から私のブログ人生が始まり、私を通路として見い出されるふしぎ発見を、誰かと分かち合い、この「リアル人生ゲーム」に活かしたいがために、2つ目のブログ『オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』を作るにまで発展してきました。

「分かち合い」ほどの、いち人生を賭けるに値する究極の財宝、自他一挙両得のベストバイブスは、他に見当たりませんもの。
自分がまずうれしいし、同時に誰かもうれしいだなんて、はっきり言って
最高!

じゃないですか。







「ふしぎ発見!」の終わりに、みなさまを発見へといざなう楽曲も紹介しています。よろしければあわせて楽しんでください。
※和訳した歌詞は、英語力のない私がグーグル翻訳を参考に、個人的解釈で訳したものなので、ちょっとおかしいよっていう訳もあるかと思いますが、大目に見ていただけましたら幸いです。

カテゴリの中の「スーパーふしぎ発見」には、ブログの核となる発見かな、と思われるものを並べています。まあ、だからどうってわけでもありません。

カテゴリの中の「映画」がいざなうふしぎ発見については、ネタバレしているものがほとんどなので、どうか「この映画これから見ようとしてたのに(泣)」なんてことにならないようお気を付けください。

一度投稿した「ふしぎ発見!」も、一年くらい間隔をあけて読み返すと「うーん…なんでこんなふうに書いたんだろう」「この表現は不適切だなあ」「今ならこんな言葉は使わないなあ」といったことがよくあります。
私はまったくいとわず何度でも記事を修正します。
修正することによって、伝えるべきメッセージが進化しつづけていることを私自身実感できますし、過去記事と現在の記事とで違いすぎるがために読者を混乱におとしいれてしまうような事態も軽減されます。
投稿日に対してコメントの日付が古い記事は、「あ、修正した記事なんだな」と思ってください。




ツイッターもやってます。
業者の方や宣伝目的の方じゃなければ、出来うる限りフォロー返ししています。