絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 後編(最終回)

すべての人間に、不食生命活動モードが備えられているのであれば、なにゆえ世界中の貧しい国々はもちろんのこと、先進国でも餓死する人々が絶えないのか。
あくまで私のひとつの推察としてお聞きください。




創刊してから200年近い歴史を持ち、
世界五大医学雑誌のひとつと呼ばれている「ランセット」という雑誌があります。
そのランセットの1886年の記事に興味深い逸話があります。
執筆者は不明で、実験の場所や時代も多くの諸説があり、はっきりとしたことはわかっていません。
現段階ではこのランセットの記事が最も古い情報とされているようです。

こちらのサイトから引用させていただきました。

忘却からの帰還




いわゆる「都市伝説」というやつです。
ですが、私にとって権威ある医学誌も、教科書の史実も、都市伝説も同じ、
「そんなことがあったのかもしれない情報」です。
いつもそのことをわきまえたうえで、情報とは向き合うようにしています。なるだけ。
なぜなら、どみどりくんがこう言うからです。

「自分のこと」だけしかわからない世界だよ パート2




究極的な視点に立って俯瞰するなら、本当に確かな情報などないし、誰にもそれは確かめようがないものであり、もっと言えば、確かめられないように、この世界はうまいことできているのです。
そのことを理解したうえで、お付き合いいただけましたら幸いです。




こんなお話です。



ある時代、あるところで心理学実験の目的で死刑因が実験場に連れて来られます。
ランセットには死刑因の名前は記されていませんが、初めて名前が登場した笠巻勝利説から引用して「ブアメード」とします。
その実験の表向きの内容は、「どれだけの血液を抜けば人体は死に至るのか」というものでした。


目隠しをされ、その体を厳重に台に縛り付けられたブアメード。
そのタイミングを見計らって、科学者はブアメードにこう告げます。

「我々の想定では、6分が経過したとき、あなたは死亡するだろう」


そうして実験開始。
6分後、ものの見事にブアメードは死亡します。
ところが──。



実は科学者は、血液が一滴ずつ垂れる音を演出するため、水の入ったサイフォンをブアメードのそばに置き、あたかもブアメードの首から血が滴り落ちているかのように思わせる細工をしていただけで、実際は針の先でブアメードの首に微細な傷を付けただけだったのです。
おそらくは科学者は、より危機迫る恐怖を演出するため、秒単位でブアメードに現時刻を告げていったのではないでしょうか。
あるいは、6分という時間だけでなく、死亡推定総出血量を事前に告げ、現総出血量をリアルタイムで告げていった、なんてこともしているかもしれません。



このことは、前回の「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 中編」でご紹介したふたつ目の要素、「言葉のプラシーボ効果」を彷彿とさせますが、こういった事例は「ブアメードの血」のようなマイナスの力に働いた効果に限らず、歩けなかった人が歩けるようになったりだとか、弱小スポーツチームが奇跡の勝利を収めたりだとか、皆様もご存知のように、プラスの効果としても山のように語り継がれています。



まさに、イエスが説いた、『人はパンのみにて生きるにあらず』です。
つまり、飢える人々は食べられないことによる過剰なまでの「恐怖」や「絶望」に殺されてしまうのではないか。そんなことを私は推察しました。




だったら「人間は食べなくても生きられること」を伝達する指導者をたくさん育て上げ、そういった国々に派遣すればいい。そうすれば世界中の人々が飢えに苦しむことはなくなる。
単純に考えればそういう貧困問題解決法に繋がります。ですが、ことはそう単純でもありません。




20世紀始め頃のドイツに、テレーゼ・ノイマンというカトリックの尼僧がいました。
彼女は20歳の時に不慮の災難に遭い、失明したうえに全身不随の体になってしまいます。
ところがその5年後、奇跡的に視力も身体も回復することになるのです。
彼女はその日以来、毎日、祭壇に供えた聖餅の小さな一片を飲み込む以外は、食べ物を完全に断ちました。
「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見 中編」でご紹介した、「あるヨギの自叙伝」という本の中に記された、テレーゼを訪ねた聖者パラマハンサ・ヨガナンダの一節を以下に引いてみます。



テレーゼはいとも優しい握手で私を迎えてくれた。われわれは互いに目を見交わしながら、神を愛する者同士の心の通い合いを覚えてほほえんだ。
「あなたは何も召し上がらないそうですね?」
私はこの答えを彼女自身の口から聞きたかった。
「はい、毎朝六時に祭壇に供えた聖餅をいただくほかは何も食べません」
「その聖餅はどのくらいの大きさなのですか?」
「銅貨くらいの大きさで、紙のように薄いものです」
彼女はこう答えると付け加えた。
「私はそれを聖餐の意味でいただくのでございます。祭壇に供えたものでなければ、のみ込むことができないのです。」
「もちろんあなたは、十二年もの間、それで命をつないできたわけではありませんね?」
「はい、私は神様の光で生きているのでございます。」
何と明快な答えであろう! 何と、アインシュタイン的言葉であろう!
「あなたは、生命のエネルギーが、エーテルや太陽や空気からからだの中に注ぎ込まれていることを知っておられるのですね?」
ほほえみが彼女の顔をほころばせた。
「私がどうして生きているのかわかってくださって、ほんとにうれしゅうございます」
「あなたの神にささげられたご生涯は、キリストがおっしゃった『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのコトバによって生きるものである』という真理を毎日実証するものですね」
この説明に、彼女は再び大きな喜びを表した。
「ほんとうにそのとおりでございます。私が今日この世にこうして生きている理由の一つは、食べ物によらず見えない神の光によって生きられることを証明するためでございます」
「あなたは食べ物を摂らずに生きる方法を人に教えることができますか?」
彼女はやや驚いたようすを見せながら言った。
「いいえ、それはできません。神様がお望みになりませんから」




テレーゼとのやりとりはこれで終わりますが、同じ本の中で、ヨガナンダは断食五十年の女ヨギ「ギリバラ」を訪ねます。
彼女とのやりとりが、テレーゼが不食伝達を断った理由の回答にもなっているので、以下に引きます。




「ママ様」私は尋ねた。「世のほかの人々にも、食べずに生きられる方法を教えてあげたらいかがですか?」
世界中の何百万という飢えた人々のためにいだいた私の野心的な希望は、即座に否定されてしまった。
「それはできません」彼女は首を振った。「私は先生から、この秘密を漏らすことを固く禁じられております。創造に関する神様のご計画にむやみに干渉することは、先生のお望みにならないことでございます。もし私が、食べずに生きる方法を人々に教えたら、お百姓たちはさぞ私を恨むことでしょうし、おいしい果物も、地面に落ちてむだに腐るばかりです。不幸や、飢えや、病気は、私たちに人生の真の意義を探求させるための、カルマのむちではないでしょうか」
「ママ様」私はおもむろに言った。「では、あなただけが何も食べずに生きてゆけるよう選ばれたのは、何のためでしょうか?」
「人間が霊であることを証明するためでございます」
彼女の顔は英知で輝いていた。
「人間は、霊的に向上するにつれて、しだいに、食べ物ではなく“永遠の光”によって生きられるようになるということを証明するためでございます」




彼女らがこのように語った意味が、私はよくわかります。
考えてもみてください。
何のための「咀嚼運動」や「歯」、「味覚」や「嗅覚」、「喉」や「食道」、「胃」や「腸」でしょう。
創造主が人間に光の存在であることを知ってもらいたいのであれば、わざわざそんな七面倒くさい「食べる」というプロセスを創造することなんてするはずもありません。
「食べる対象物」を味わい、「食べるを通じた身体的変化」を味わい、そして、「食べるから派生する様々な人間的繋がり、悲喜こもごも」を味わい、体験したいがために、「食べる」という機能は備わったと見るのがもっともであると、私は考えます。
もちろん、体験したいと思った張本人は、創造主です。私たち人間は、創造された存在であると同時に、創造主でもあるのです。



人間が霊的に向上すべきか否かなどという問題は、「個」である人間のおよぶところではありません。
すべては「全」である世界が決めます。



けれどもここまで私が書き記してなお、「人は食べなくても生きられること」を伝達し、たくさんの人々を救いたいという無尽の情熱を燃やす人があれば、その人はそうするべきです。そこまでの想いであれば、それがその人の宿命であり、世界がその人に託したその人の歩むべき道だからです。



ですが、先ほどもお話ししたように、ことはそう単純ではありません。
その情熱には、強大な逆風が吹き荒れるでしょう。
丈夫な大木にしがみついたとしても、その大木すらも、根こそぎ吹き飛ばすほどの強風です。
なぜなら地球人類が織り成すこの現代社会は、「金」という「血液」を送り出す「心臓部」に鎮座まします支配者が統治する世界です。
生き延びるためにより多くの「血液」をかき集め、自社に流し込み続け、前年度比以上の経常利益を出し続けなければ滅ぶしかない「大手食品業界」が、「食べる量を減らしましょう」などという風潮を黙って見過ごすはずがありません。
グルメ番組を放送するテレビ業界も、料理本や食べ歩き本を取り扱う出版業界も、大型スーパーやファーストフード、コンビニ、大手グルメサイトなども、同様です。
そして、世界が健康な人々であふれかえってしまったとき、深刻な被害をこうむるのが「医療業界」や「製薬会社」です。
巨万の血液が日々流入する「医療業界」や「製薬会社」が、「食べなければほとんどの病が治ってしまう」などという風潮を黙って見過ごすはずもありません。





やはり、ことはそう単純ではないのです。
世の中をよくしてくれるはずの発明や思想が、お金に結びつかないもの、どころか、遮るものとなるなら、それは心臓から血液を送り出している者たちや、心臓からの大きな恩恵を受けている各臓器(政治家や官僚や大手メディアや大手企業)に疎まれ、容赦なく排斥されるのです。
世の中をよくする、ということは、イコール、それら強大な力を持った勢力(イモータン・ジョーやその配下たち)と対峙しなければならないことを意味するのです。






とはいえ、形あるものも、形なきものも、いつの日にかは必ずや崩壊します。
それは支配する側も、支配される側も同じです。
ですが、それがいつかは、世界のみぞ知ります。
あなたが食べずに生きる人間へと変態するのか。
それとも今までと変わらぬ食生活を送り、そのまま最期の日を迎えるのか。
いずれにしても、そこに優劣や善し悪しなどありはしませんし、
このふしぎ発見を読んで以後、あなたが歩む道もまた、世界のみぞ知ります。
あらゆるすべては、世界のみぞ知るのです。






最後に、修行最終日のエピソードを記して、
「絶飲絶食の禊修行から見えてきたふしぎ発見」を終わりにしたいと思います。


4日目。夕刻よりも少し前。
相も変わらずの祝詞を唱えさせられていたところ、ラストスパートとばかりに、屈強な指導者たちに取り囲まれ、方々から罵声を浴びせられ、身体を揺さぶられ、鞭打つように手刀が飛んで来ては、もみくちゃにされます。


4日間ものあいだ、(申し込み間違えたのは自分のせいとはいえ)さんざんやられてきた憤懣が大爆発し、私は前にいた指導者の誰かを突き飛ばし、立ち上がってしまいます。
するとあっという間に取り押さえられ、「なんて我の強いけがらわしい奴だ!」などとこの禊の会の代表であろう男に睨みつけられ、広間から薄暗い廊下を奥へ奥へと移動した、ロウソクの灯りだけの薄暗く狭い個室へと連れていかれます。
神道的装飾がほどこされた、とても怪しげな雰囲気の個室でした。




正座した状態で待たされていると、宮司の格好をした先刻の代表が、長々とした祝詞を北朝鮮ニュースのアナウンスのごとく、大仰な口調で読み上げ、「この男の罪穢れを残らず祓いたまえ!」といったことを叫んだかと思うと、再び指導者たちに取り押さえられ、頭を床に押し付けられ、「さあ吐け!すべて吐き出せ!もっとだ!もっとだ!まだ出て来るはずだ!」と、身体を前後に揺さぶられ、胃液が出そうなほどに口を開け、罪穢れを吐き出すことを強要されます。




この完全にイッてしまっている宮司を納得させるために、俳優を目指していた頃の血が目覚めたかのような、迫真の演技?で、罪穢れを吐き出す動作をひたすらくり返し、声にならない声を吐き出し続け、わけがわからなくなってきて眩暈がしてきたころに、ようやく納得したのだろう宮司に私は解放されました。




広間に戻ると、まるでこれまでの4日間がドッキリであったかのように、厳めしい顔を崩さなかった関係者たちは、手に持った鐘をふりながら、満面の笑顔でいつもの祝詞を唱え、アメリカ人3人と日本人1人の修行者も、同様に満面の笑顔で同じことをしています。
呆然と立っていると私にも鐘が渡されたので、私も見よう見まねで同じことをやりました。



間もなく、指導者たち全員が立ち上がり、拍手が巻き起こり、

「よく耐えたぞ!」
「よくここまでやりきった!」

などといった賛辞の声を私たち5人は集中砲火され、指導者たち一人一人と固い握手を交わしました。
他の4人は号泣していましたが、申し込み違いでうっかり巻き込まれた感が終わってもなおぬぐえなかった私は、まるで部外者であるかのように、うまくその空気に溶け込めずに、なんとなく誤魔化して泣き顔をしてみたりしてました。




代表から一人一人終了書を授与し、4日ぶりの入浴をさせてもらい(このとき、手足が凍傷になっていることに気づきます)、道場に来て初めて見かける女性たちが、夕飯の準備をしているキッチンを横切ると、修行に携わった全員分のお弁当とビールが並べられた会食席が設けられていましたが、「今日までは」という思いがあった私は、それを食べずに持って帰ることにしました。
修行を終え、安堵に心休まってなお、猛烈な空腹感や飢餓感のようなものはありませんでした。食べてもいいし、食べなくてもいい。そんな心境でしょうか。いずれにしても、とても疲れていました。




席では自己紹介の時間がありましたが、そこで私は初めて間違って申し込んでしまったことを打ち明けました。
どうして頑なに食事を拒んだかも、確か話したような気がします。
呆れた指導者たちの顔と、日本語が堪能でプロレスラー体型のアメリカ人指導者が、

「ムリムリムリムリ、ありえないでしょそれ。逃げるでしょ普通」と、若者口調で首をふっていたのが今でも忘れられません。




他の4人との別れ際、何かとても感動的な、大事な言葉を交わした覚えがあるのですが、今こうして思い返そうと試みると、まったく思い出せない残念な記憶力の自分がいました。
3回にも渡り、禊にまつわるふしぎ発見を長々と書き連ね、いま切に思うことは、2度とあんな思いはごめんだ、ということだけでしょうか。

でも、この話をするとどの人もだいたい笑ってくれるのです。
そういう意味ではラッキーな体験だったと言えるのかもしれません。













あなたのその身に、
いかなる逆境や順境が待ち受けているとしても、
どみどりくんは変わらず、
いずれあなたにおとなうであろう「発見」によりそっています。

今日のあなたを「ふしぎ発見」へといざなう音楽

「Born Slippy / UVERworld(ウーバーワールド)」
原曲 Born Slippy / UNDERWORLD(アンダーワールド)
作詞 Karl Hyde

Hi mum are you having fun
ハイ ママ 楽しんでるかい
And now are you on your way
そして今 新感覚の緊張性頭痛みたいな
To a new tension headache
あなたの道を歩んでいるかい






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sayamaさん

関係がある、とも、ない、とも言えないですね。

食を絶つ人はたくさんいても、その全員が悟っているとは一概に言えないことからして、その効能には個人差があるということだと思います。

No title

仏陀が悟りを開いたのは直前まで断食やってたりしたのも関係あるのかもと思ったり。違いますかね。
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両方合わせてようやく私のメッセージの完成形となりますが、選り好みして「表通り」だけ見てもらってもまったく問題ありません。
来るべきときが訪れたなら、おのずと「裏通り」も歩かされている自分を発見されますから(ニヤリ)

で、この「裏通りブログ」が何故に必要なのかと申しますと、早い話が「表通り」だけでは解決できない、処理しきれない問題(絶体絶命のピンチ)に、人は前触れもなく遭遇するからです。
誰しものそのときのためにこそ、私「じゃっく」が、フシギニストである「どみどりくん」に扮し(チャネリング?)ながら、この「裏通りブログ」は存在し続けます。


「世界ふしぎ発見」とは言っても、某テレビ番組が世界における「目に見えるふしぎ」を発見して紹介するのとは趣がちがい、このブログでは世界における「目には見えないふしぎ」の発見を書き記することを趣旨としています。

ですが、「目には見えない」とは言っても、「UFO」「超能力」「幽霊」といった類のものとは趣が違いますし、「スピリチュアル」ともまたちょっと違うのかもしれません。
「哲学」「宗教」とも言い切れませんし、「自己啓発」「人生哲学」ともまた少し違うかもしれません。

しいて言うなら、みなさんが今まで生きてきた中で、学校教育や家庭教育やマスメディアによって抗いようもなく培われ、育くまれた「常識」「当たり前」「思い込み」「偏見」「先入観」などをとっぱらった先にある「あるがままの世界」あるいは「究極の羅針盤」の発見ってところでしょうか。


たとえばですが、

『きみが何を考え、何に思い悩み、何を行為しようとも、きみ自身は実は何もしていないのさ』

いきなりこんなことを断言されたとしたら、どう思うでしょうか。
「うん、そうだと思ってた!」という方は、おそらくは皆無に近いかと思われます。
おそらくは「あ…ちょっとこの人、ヤバイ宗教とか入ってる感じの人なんだろうな。かかわらないようにしよう…」
おおかたそんなところではないでしょうか。

ですが、私は特定の宗教を信仰していませんし、歴史上の人物や現存するいかなる人物も、敬いはしても崇拝するような対象にはなりません。この先もずっと。




そもそもはこの「裏通りブログ」から私のブログ人生が始まり、私を通路として見い出されるふしぎ発見を、誰かと分かち合い、この「リアル人生ゲーム」に活かしたいがために、2つ目のブログ『オルタナティヴ・スピリチュアルの時代へ。みんなと。』を作るにまで発展してきました。

「分かち合い」ほどの、いち人生を賭けるに値する究極の財宝、自他一挙両得のベストバイブスは、他に見当たりませんもの。
自分がまずうれしいし、同時に誰かもうれしいだなんて、はっきり言って
最高!

じゃないですか。







「ふしぎ発見!」の終わりに、みなさまを発見へといざなう楽曲も紹介しています。よろしければあわせて楽しんでください。
※和訳した歌詞は、英語力のない私がグーグル翻訳を参考に、個人的解釈で訳したものなので、ちょっとおかしいよっていう訳もあるかと思いますが、大目に見ていただけましたら幸いです。

カテゴリの中の「スーパーふしぎ発見」には、ブログの核となる発見かな、と思われるものを並べています。まあ、だからどうってわけでもありません。

カテゴリの中の「映画」がいざなうふしぎ発見については、ネタバレしているものがほとんどなので、どうか「この映画これから見ようとしてたのに(泣)」なんてことにならないようお気を付けください。

一度投稿した「ふしぎ発見!」も、一年くらい間隔をあけて読み返すと「うーん…なんでこんなふうに書いたんだろう」「この表現は不適切だなあ」「今ならこんな言葉は使わないなあ」といったことがよくあります。
私はまったくいとわず何度でも記事を修正します。
修正することによって、伝えるべきメッセージが進化しつづけていることを私自身実感できますし、過去記事と現在の記事とで違いすぎるがために読者を混乱におとしいれてしまうような事態も軽減されます。
投稿日に対してコメントの日付が古い記事は、「あ、修正した記事なんだな」と思ってください。




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